南木佳士の旅 ゆかりの地と関連史跡 |
![]() 南木佳士は昭和26年(1951年)10月13日、群馬県吾妻郡嬬恋村三原大字川原に生まれました。 本名は霜田哲夫 草軽電鉄の運転手であった祖父は、彼が生まれる前に死亡していました。 3歳のときに結核のため、教師であった母親を失いました(享年33歳)。 父親の再婚と仕事の都合で、祖母と姉と3人で三原で暮らし、中学2年生の春に、父親の転勤について上京。 保谷市立保谷中学校に転校し、社宅で父親継母と3人で暮らしました。 2年生から3年生にかけてサッカー部のウィングとして活躍し、最終的には仲間を裏切る形で退部した話も、彼の作品によく出てきます。 昭和42年(1967年)に都立国立高校入学。 この年から導入された学校群制度のため、第一志望の立川高校には入れませんでした。 国立高校を卒業した南木佳士は、現役での医学部受験は数学の出来が悪くて浪人。 昭和46年(1971年)に絶対安全と言われた一期校の千葉大学医学部を受験するも不合格となり、都落ちして二期校の秋田大学医学部に入学しました。 田舎の新設医学部での生活は南木佳士にとって不本意で、挫折感と劣等感の中で彼が秋田での生活を嫌い抜いたことは「医学生」を始めとする多くの作品に繰り返し書かれています。 大学5年生の秋に、父親(54歳)が最初の脳梗塞の発作を起こしました。 症状は軽く、職場に戻った父親は翌年定年退職し、三原の自宅の母屋の横に鉄筋コンクリートの離れを建てました。 昭和52年(1977年)卒業後は、生家の嬬恋村に近い長野県南佐久郡臼田町にある佐久総合病院内科に勤務。 佐久総合病院は若月俊一氏が、「農民とともに」を掲げ農村・地域医療を主導した、「農村医療のメッカ」として知られる病院です。 研修2年目(昭和53年?・1978年)の4月に、実家隣の旅館の娘と結婚。 婚前交渉あり。 昭和54年(1979年) 1月、長男・佳士誕生。 昭和56年(1981年)2月21日の寒い朝、祖母が急死(享年81歳)。 昭和56年(1981年)5月、次男誕生。 昭和56年(1981年)夏、難民医療チームに加わってタイ・カンボジア国境に赴いている最中「破水」にて第53回文学界新人賞を受賞。 昭和60年(1985年)、軽井沢病院内科医長として一年間出向し、軽井沢に住みました。 芥川賞を受賞した『ダイヤモンドダスト』は、軽井沢の病院が舞台となっています。 平成元年(1989年)に「ダイヤモンドダスト」で第100回芥川賞を受賞。 平成2年(1990年・38歳)9月27日の朝、病室から外来に向かう廊下を歩いていたとき、急に胸苦しくなり、額に冷や汗がにじみ、、ふらついて立っていられなくなりました。 パニック障害の発症です。 呼吸器科医として、肺ガンで死んでいく患者を多く看取りすぎた心労が原因だと、本人は書いています。 パニック障害、うつ病のリハビリのために「医学生」を書く(平成5年・1993年5月出版)。 平成6年?(1994年)42歳の時「風」の墓を作る。 平成8年?(1996年)病院住宅の近くに土地を購入し、自宅を建てる。 平成9年?(1997年)秋に寝たきりの父親を在宅介護。 平成10年?(1998年)2月に父親が死亡。 同年4月に心療内科への通院を止める。 平成10年?(1998年)桜の咲く前に妻が子宮筋腫の手術を受ける。 平成13年(2001年)10月13日 50歳の誕生日に登山靴を買い山歩きを始める。 平成14年(2002年)「阿弥陀堂だより」映画化される。 平成17年(2005年)10月(?) 肺良性腫瘍の手術を受ける。 |