愛媛の旅 7)卯之町/二宮敬作・お稲  09年5月6日(水・休)

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 宇和島からJRで松山方向に戻り、次の目的地は「卯之町」です。
 まずはタクシーで「宇和町先哲記念館」へ。

 卯之町はその静かな佇まいにもかかわらず、多くの歴史的資産に恵まれています。
 その中心となっているのが、シーボルトの弟子にして、この地で開業した二宮敬作でしょう。

 二宮敬作の高名を慕って、多くの俊才がこの地に集まりました。
 中でも有名なのが、シーボルトの娘お稲でしょう。

 1840(天保11)年3月、敬作は14歳のお稲を長崎から呼び寄せ、オランダ語・西洋医学を教えました。
 1845年(弘化2)7月、お稲は産科修行のため岡山の医師石井宗謙の元へ移りましたが、いろいろ大変なことがあって‥‥詳細カット (^_^; 。

 1854年(嘉永7&安政元)11月、立ち直ったお稲は再び卯之町の敬作の元にやって来ました。
 この時にお稲は宇和島藩に招かれていた大村益次郎(妻あり)に蘭学を学び、ただならぬ関係になったはず。
 すごいカップルですね (@o@)。

 明治2年(1869)9月、京都で不平士族に襲われた大村益次郎は、浪華仮病院でボードウィンの執刀による右脚切断手術をうけましたが敗血症を併発し、11月5日に世を去りました。
 この時お稲は献身的に大村を看病し、その最期を看取ったことが知られています。
 
宇和町先哲記念館 その内部
外科の手術器具 楠本イネと二宮敬作


 二宮敬作の元にやってきたもう一人の大物が高野長英です。
 「蛮社の獄」で捕らえられた長英は、弘化元年(1844年)6月29日深夜、伝馬町牢屋敷の火災に乗じて脱獄しました。
 やがて長英は宇和島藩主伊達宗城に招かれ、嘉永元年(1848年)4月に宇和島にやって来ました。
 彼は宇和島で蘭書の翻訳に励みました。

 翌嘉永2年(1849年)1月、長英は追っ手から逃れるため、卯之町の二宮敬作を頼って来ました。
 敬作は離れの2階に長英を匿いました。
 その家のあとが史跡として残されています。

 お稲は弘化2年(1845年)7月に宇和島を去っていますので、長英と合うことはなかったようですが、時を隔てて同じ離れに住んだことになるようです。

 「二宮敬作住居之?」の碑の隣には「女医イネ発祥の地」の案内板が立っていました。

二宮敬作先生住居之? この道を右へ行くと
高野長英の隠家 正面から


 整備された懐かしい昔の街並みが続く宇和島街道を行くと、明治15年に建てられた開明学校がありました。
 内部には古い資料がいっぱいで、興味のある人にはたまらない資料館でしょうが、僕は二宮金次郎の写真を撮って、裏手に回ります (^_^ゞ。

宇和島街道を行き ここで曲がって石段を登ると
明治15年に建てられた、開明学校 御存知 二宮金次郎石像


 開明学校裏手の墓地に「二宮敬作翁之墓」がありました。
 二宮敬作は長崎で亡くなり、皓台寺にある楠本家の墓地に葬られています。
 開明学校のお墓には、その遺髪が埋められているそうです。
 
開明学校裏手の墓地に 二宮敬作翁之墓
 
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