続・太宰治の『津軽』を巡る 2009年9月22日(火) (20)旧制弘前高校 旧弘前衛戍病院 旧弘前偕行社 |
![]() 弘前大学教養部は今でも街の中心から離れていますが、太宰の頃はさぞや田舎だったことでしょう。 正門から入り、右手を注意していくと、「弘高生青春の像」が建っています。 そして、そのそばに「旧制弘高在校生名簿」があります。 太宰治は昭和2年(1927年)18歳で弘前高校に入学しました。 津島修治の隣りに(太宰治)とペンネームが書かれています。 津島修治の3つ右に「津川武一」の名前があります。 津川武一(つがわ たけいち)、1910年(明治43年)8月2日~1988年8月2日。 1930年、東京帝国大学医学部に進学し、在学中に日本共産党に入党しました。 敗戦後は、郷里にもどり、共産党の再建活動に参加し、医療生協の運動を発展させ、文人としても活躍しました。 1969年、第32回衆議院議員総選挙に中選挙区の青森2区から立候補、当選をはたし、東北地方の最初の日本共産党の代議士として、1986年に引退するまで通算5期衆議院議員をつとめました。 先に紹介した田沢吉郎のライバルですね。
さて、下の地図で弘前高校の下にある弘前衛戍病院は、陸軍軍人のための病院でしたが、おはなはんの夫速水謙太郎大尉はこの病院に収容されることなく、五所川原の野営地で死亡したようです。 衛戍病院は今では「国立病院機構弘前病院」となっています。 『太宰まなびの家』への通り道なので、ちょっと寄ってみましょう。
さて、上の地図で弘前衛戍病院の下にあるのが旧弘前偕行社(陸軍将校の親睦団体)です。 第八師団の開庁に伴い、明治40年に建設されました。 第二次大戦後は弘前厚生学院の所有となっていますが、ルネッサンス様式の洋風建設で、東北地方に現存する陸軍関係の貴重な建物です。 2011年に公開された映画『津軽百年食堂』では、明治時代の弘前駅として使われました。
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