太宰治文学紀行 三鷹市(T) 太宰の仕事場 2014年6月29日(日) |
藤原歌劇団《蝶々夫人》のついでに、太宰治が住み、そして死んだ三鷹市に、彼の史跡を訪ねてみました。 三鷹市には2004年4月11日に来たことがあるのですが、あの頃は太宰治についてほとんど知識がありませんでした。 今回はじっくり下調べをして見逃しがないように心がけました。 まずは、三鷹電車庫跨線橋です。 JR三鷹駅から武蔵境駅方面に進み、5分ほどで右手に跨線橋が見えてきます。 この跨線橋は1929(昭和4)年に竣工しました。 太宰はこの橋を好み、友人や来客をこの橋まで連れてきたそうです。
三鷹駅方面に戻り、地下道のある三叉路を斜め右に道を取ります。 そのまま進むと太宰が仕事場として使った中鉢家に至ります。 中鉢家の向かいは太宰が使った三鷹郵便局です。 太宰はこの近くに中鉢家、「千草」2階、野川家など六カ所の仕事場を持ち、午前9時頃に家を出て、午後3時頃に仕事を切り上げて、若松屋で酒を飲んでいたそうです。
そして駅前の小料理屋の「千草」です。 太宰はこの店の2階を仕事場として使っていました。 三鷹駅前共同ビルの駐車場入口に「千草」跡のプレートはありました。
そこから駅の反対側の通りを見ると、左手に永塚葬儀社の看板があり、その看板の下に「野川家跡」のプレートがあります。 ここが山崎富栄の下宿でした。 富栄は美容学校の校長の娘で、戦争未亡人でした。 戦災で破壊された学校の再建を目指し、昼はミタカ美容室、夜は進駐軍のキャバレーの美容師室で働き、多くの収入を得る人気美容師でした。 太宰は昭和21年11月に疎開先の青森から三鷹に戻ってきました。 富栄が太宰と知り合ったのは、昭和22年3月27日の夜で、弘前高校の学生だった次兄の話を聞こうと太宰を訪ねたのでした。 富栄は急速に太宰に惹かれ、5月3日に肉体関係を持ったようです。 太宰は野川家の2階を仕事場として使うようになり、富栄は秘書のような役割を果たすようになりました。 ちなみに、太宰が下曽我の大雄山荘で太田静子を妊娠させたのは、昭和22年2月21日でした。
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