太宰治文学紀行 三鷹市(U) 玉川上水 2014年6月29日(日) |
昭和23年(1948年)6月13日の夜、太宰治と山崎富栄は玉川上水で心中しました。 富栄の下宿である野川家の2階は整理され、遺書など死出の準備がされていたそうです。 当時の太宰は、肺結核の進行による血痰、知恵遅れの長男、太田治子の誕生、莫大な税金など、多くの問題を抱えていました。 特に進行した結核により、いつ死んでも仕方がないような状態になっていたと思われます。 一方、山崎富栄には父親晴弘が作った美容学校を再建するという使命があり、心中なんかしている場合ではありません。 晴弘門下には優秀な美容師が多く、富栄も次期校長として、日本でも指導的立場の美容師となる立場でした。 太宰に繰り返し「死ぬときは一緒」と言われ、正常な判断を失っていったものと考えられます。 恋する女性の常として富栄も粘着質になり、太宰を独占しようとするようになります。 太宰は富栄との関係も清算したかったのかも知れません。 執筆中の「グッドバイ」(読んでいない)に、戦争未亡人の美容師の愛人と別れる(捨てる)エピソードが出てくるそうです。 また富栄に別れをほのめかす言動もあったそうで、太宰にすべてをかけていた富栄から千草の二階に閉じ込められた状態になっていたそうです。 富栄の浅はかな行動は「太宰を殺した女」として世間から非難を浴び、美容学校再建を目指していた山崎家の破滅をもたらしました。 山崎富栄の名誉回復に尽くしたのが太宰研究家の長篠康一郎氏で、松本侑子さんの「恋の蛍」は新田次郎文学賞を受賞しました。 さて、三鷹市の玉川上水は「風の散歩道」と呼ばれているそうですが、全くのジャングル状態。 川も見えず、これでは入水心中も出来ません。 三鷹市はもう少し整備に力を尽くしたら良いのに、と思いましたよ。
二人が心中した場所は草が薙ぎ倒され、赤土がむき出しになっていたそうです。 そばにはビールの瓶(?)とガラスの小皿があったそうです。 当時の玉川上水は水道用水であり、利用者である東京都民にとっては気分の悪い話だったでしょう。 心中場所にある、故郷金木から送られたという玉鹿石(ぎょっかせき)を探します。 2004年4月に来たときは簡単に見つかったのですが、これが見つからない。 タクシーで3回まわって、運転手さんに「お客さん、私は毎日この道を通っていますが、そんな石は見たことがありません。他に移されたんじゃないですか?」と言われる有様。 諦める前に、開店準備中のレストランに入り、「玉鹿石ってありませんか?」と聞いたら、「うちの前にありますよ」との返事で、僕は玉鹿石を見ることが出来ました (^_^) 。
6月19日、二人の遺体は投身場所から1kmほど下流にある新橋の下流10メートルほどのところで浮き上がっているのが発見されました。 二人はともに半ズボン姿だったそうです。 遺体は腰の部分を赤いひもでしっかりと結ばれており、ひもは太宰の関係者によって切り離されました。 享年太宰39歳、富栄29歳。 訪れた新橋周辺もジャングル状態で、川面も見えません。 これでは浮き上がった遺体を見つけるのも大変です。 この場所は津島家に近く、千草の女将さんが走って伝えたのですが、美知子夫人の答えは「太宰の遺体は骨にするまで、家に上げないで下さい」でした。 二人の遺体は千草で検死が行われました。 そして、別々の火葬場に送られました。 太宰の遺骨は津島家へ、富栄の遺骨は野川家の下宿に安置されました。
山崎富栄の両親に宛てた遺書には「骨は、本当は太宰さんのお隣にでも埋めていただければ本望なのですが、それはむしのよい願いだと知っています」と書かれていたそうですが、もちろん美知子夫人が許すはずもありません。 富栄は山崎家の菩提寺である永泉寺(文京区)に埋葬されました。 美知子夫人の「回想の太宰治・増補改訂版」(講談社文藝文庫)によれば、美知子夫人は遺骨を金木にある津島家の菩提寺である南台寺に葬りたかったそうです。 しかし長兄の文治から「郷里に帰るに及ばず、東京で葬るように」と断られ、そこで東京で浄土真宗の寺にあたって断られ、三鷹の禅林寺の住職の好意で、今の場所に埋葬されることができたそうです。 檀家総代からは激しい反対の声が上がったそうです。 一方、中畑慶吉さん(長兄文治との窓口役)は太宰の墓について、「このような不始末では代々の墓には入れられないから、どうしたら良いか正直に言ってくれ」と美知子夫人に尋ね、「娘は東京で育てたいので、墓は近くの禅林寺はどうでしょう」という答えがあったと語っています。 |