『パリ お墓とオペラの旅』 2011年5月2日(月)
20)ロッシーニの墓、ショパンの墓(ペール・ラシェーズ墓地)
  
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 朝のテレビで、国際テロ組織アル・カーイダの指導者ウサマ・ビンラーディン容疑者が殺害されたというニュースが流れていました。
 モンパルナス駅には銃を持った警官が立っていました。
 フランスはイギリスと協力してリビアを空爆しており、テロの恐怖を感じる旅ではありました。

 さて、今日はパリ最大の墓地、ペール・ラシェーズ墓地を巡ります。
 メトロ駅の階段を上ると墓地の裏口で、ここは閉まっておりました。
 壁に沿っていくと、立派な正門がありました。
 
メトロ出口 ペール・ラシェーズ墓地 正門
 

 お墓巡りを開始したのは10時頃。
 正面の歩道に面してジョアッキーノ・アントニオ・ロッシーニの墓(1792〜1868)。
 ロッシーニの遺体は1887年にフィレンツェのサンタ・クローチェ教会に移されました。

正面の歩道 ロッシーニの墓


 ロッシーニの隣にあるのがルイ・シャルル=アルフレッド・ド・ミュッセの墓(1810〜1857)。
 1833年、ミュッセはジョルジュ・サンドと激しい恋に陥り、ヴェニスに旅行しました。
 この旅行は喧嘩別れに終わったようです。
 サンドとショパンとの恋愛は1836年から1847年。

アルフレッド・ド・ミュッセの墓  


 続きまして、作曲家マリア・ルイージ・カルロ・ゼノビオ・サルヴァトーレ・ケルビーニの墓(1760〜1842)。
 有名な作品はオペラ《メディア》、ルイ16世の処刑を悼んで作曲された『レクイエム ハ短調』など。
 フィレンツェ出身で、フィレンツェにはケルビーニ音楽院がありました。

ルイジ・ケルビーニの墓  


 ペール・ラシェーズ墓地のハイライトはフレデリック・フランソワ・ショパンの墓(1810〜1849)でしょう。
 1849年10月17日、ショパンはヴァンドーム広場に面した部屋で息を引き取りました。
 享年39歳。
 10月30日にマドレーヌ寺院で執り行われた葬儀の後、ショパンの棺はペール・ラシェーズ墓地に埋葬されました。

 墓を見下ろす女神の像は、ジョルジュ・サンドの娘ソランジュの夫である彫刻家オギュースト・クレサンジュによるものです。
 クレサンジュはショパンのデスマスクも作成しています。

 ジョルジュ・サンドと娘ソランジュ夫婦との不和が、ショパンとサンドとの別れの原因となってしまいますが、映画『ショパン〜愛と哀しみの旋律』(帰国してから見た)にはこの辺りの複雑な事情が、良く描かれていると思います。

 さすが人気のお墓だけあって、次々と観光客がやってきます。
 ポーランド人のご夫妻から「日本人はどうしてあんなにショパンが好きなのか? コンクールを受けるピアニストもレベルが高い」と質問を受けました。
 英語で芸術論を交わすのはちょっとね (^_^; 。
 
人がいっぱい ショパンの墓
女神像はクレサンジュの作 人がいっぱい


 ショパンの墓の向かいにある、誰も見向きもしない墓が作曲家ギュスターヴ・シャルパンティエの墓(1860〜1956)。
 2007年1月の東京オペラ・プロデュース公演 《ルイーズ》で、僕は初めて大隅智佳子さんを聴いて、ファンになったのでした。
 
ギュスターヴ・シャルパンティエの墓  


 この近くにヴィンチェンツォ・ベッリーニの墓(1801〜1835)があるはずなのですが、内部に入り込んでいて、探すことが出来ませんでした。
 

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