前へ ホームページへ 紀行目次へ 次へ アンドレアス・ホーファー |
王宮教会の入口にアンドレアス・ホーファー(1767年11月22日〜1810年2月20日)のお墓があります。 僕は前回1993年のインスブルック旅行でこの大理石像を見て、それ以来アンドレアス・ホーファーに興味を持っていました。 1993年ってほぼ20年前ですか (@o@)。 1809年8月の第3次ベルクイーゼルの戦いに勝利し、チロルの摂政としてインスブルックの王宮からチロル地方を治めたホーファーですが、10月14日にウィーン政府がチロルを正式にバイエルンに譲渡したため、ホーファーは降伏し、大赦を受け、故郷に戻りました。 ホーファーは11月に再び兵を挙げますが、多勢に無勢でフランス軍に敗れ、故郷のパッサイヤに潜伏します。 彼の首には1500ギルダーの懸賞金が掛けられました。 隣人であったフランツ・ラッフルの裏切りにより、1810年1月19日にホーファーはイタリア軍により捕らえられました。 フランツ・ラッフルは20年後にバイエルンで貧困のうちに死亡しました。 ホーファーはナポレオンの命令によりマントヴァに送られ、軍法裁判の結果、1810年2月20日に銃殺されました。 ホーファーは目隠しを拒否して、「フランツ皇帝万歳、祖国万歳」を叫んでから、兵士達に向かい「真っ直ぐ撃て」と命令し、一斉射撃に倒れました。 享年42歳。 彼の遺体はマントヴァに埋葬されました。 僕は2007年5月にマントヴァを訪れたことがあり、どうもホーファーのお墓の近くまで行っていたようです。 また行くチャンスがあれば良いのですが‥‥。
ナポレオン没落後のウィーン会議(1814〜15年)の結果、チロルはオーストリアに返還されました。 1818年、ホーファーの遺族はオーストリア皇帝から栄誉を与えられました。 1823年、ホーファーの遺体はマントヴァからインスブルックの宮廷教会に移されました。 1834年に大理石像が製作されました。 |