ウィーンミュージカル 《エリザベート》 (16)
◇ エピローグ/幕が下りる
 
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 エリザベートがレマン湖畔で、イタリア人テロリスト、ルイジ・ルケーニに刺されたのは1898年9月10日午後1時半。
 この時期、彼女はモントルー郊外のコーに滞在していた。
 9月9日、エリザベートはジュリー・ロートシルト(ロスチャイルド)男爵夫人の招きで、レマン湖畔プルニーを訪れた。
 そして、その夜はジュネーブのホテル・ボー・リヴァージュ(現存する高級ホテル)に宿泊した。

 翌10日、エリザベートは蒸気船ジュネーブ号でコーに帰るため、モンブラン埠頭の船着き場にやって来た。
 この旅は『ホーエンテンプス伯爵夫人』という偽名でのお忍び旅行だったが、朝刊に『オーストリア后妃エリザベートがホテル・ボー・リヴァージュに滞在中』という記事が出てしまった。
 エリザベートは大勢での行動を好まなかったので、お付きの者はシュターレイ伯爵夫人だけ。
 そこをルケーニに襲われたわけだ。

 先のとがったヤスリで刺されたため出血も少なく、エリザベートは何事もなかったようにジュネーブ号に乗り込んだが、そこで倒れた。
 最後の言葉は『わたくし、どうしたんでしょう?』。
 服をゆるめようとしたシュターレイ伯爵夫人が胸の刺傷に気付き、船はジュネーブの船着き場に戻った。
 ホテル・ボー・リヴァージュで死亡が確認されたのは午後2時40分。
 享年61歳であった。

 フランツ・ヨーゼフがシェーンブルン宮殿で凶報を聞いたのは午後4時半。
 エリザベートの遺体はスイスの法律にのっとって翌11日解剖され、15日にウィーンに戻った。
 葬儀は9月17日に行なわれ、棺はカプツィーナー教会のカイザーグルフトに納められた。

 ルイジ・ルケーニはパリ生まれのイタリア人アナーキスト。
 25歳で、ローザンヌの郵便局で働いていた。
 『誰でもいいから高位高官を狙っていた』とのことで、最初の狙いはジュネーブに滞在していたフランス王位継承権を持つオルレアン公だったが、彼は帰国してしまったので、次にエリザベートが襲撃の目標となった。

 ルケーニは裁判で終身禁固を言い渡されたが、1910年10月16日独房で首を吊った(37歳?)。
 だから、ミュージカルの最初の裁判シーンに、首を吊ったルケーニの人形が出てくるわけだ。

 エリザベートが死亡したときに着ていた服はシュターレイ伯爵夫人に下げ渡され、今ではブダペストの国立博物館に展示されている。
 下の写真はこの服を探してブダペストの街をさまよい歩いた僕の努力の結晶なので、そのつもりで見ていただきたい (^_^ゞ。
 
国立博物館 エリザベートの服

◇エピローグ ジュネーブ・レマン湖畔の散歩道

 ルケーニは通りかかったエリザベートを目指してスロープの上から駆け下り、彼女を刺す。
 お付きの女官(シュターレイ伯爵夫人)の『 HILFE EIN ARZT! 』(助けて、お医者さまを!)という叫びは、シーン6『DIE MALADIE/病気』でのエステルハーツィ・リヒテンシュタイン男爵夫人の叫びと同じ。

 刺されたエリザベートはすぐには死なない。
 舞台下手で立ち上がり、黒い服を脱ぎ始め (@o@) 、白い下着姿となる。
 この下着は『私は私だけのもの』を歌ったときの下着だね、きっと。

 『幕が下りる』

 舞台上手にはトートが現れ、彼女を求める。
 『幕が下りる。 私はお前に憧れていた。 私をこれ以上待たせるな!』
 エリザベートはトートに近づく。
 『私は泣いた。 私は笑った。 私は落胆した。でも、また希望を持った。 私がしてきたことに私は誠実だった』
 そして、彼らは抱き合い『私は私だけの(お前は私だけの)もの!』。
 トートのディープな口づけで、エリーザベトは崩れ落ち、息絶える。

 ルドルフとエリザベートに対するトートのキスは『死の接吻』なんですね。

 カーテンコールには、エリザベート・トート・ルケーニが手をつないで現れ、『そうか、この3人が主役だったのか』と改めて認識した。
 客席はスタンディング・オベーションとフラッシュの嵐。
 僕も思わず撮っちゃいました、記念写真 (^_^ゞ。

カーテンコール(03年12月31日) MAYA HAKVOORT

 ということで、やっとレビューが終わりました。
 ここまで気長に読んで下さった皆様、ありがとうございました <_._> 。
 《エリザベート》は思い入れの強いミュージカルなので、僕なりに一生懸命書いてみました。
 皆様の参考になれば幸いです。
 

 
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